愛知県豊田市 逢妻女川あいづまめがわ むかしむかし あのね| 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |

鳳面館ほうめんやかた異聞

千足町川端に、鳳面館ほうめんやかた(仮称)と呼ばれる館跡があります。
千足は、江戸時代にわかれて千足村になりましたが、昔は、本地村の一部で した。本地とか本郷という地名は、その周辺地域の中では、最も早く人の住み ついた所で、元郷とか親村といわれています。
その親村の中心になった人物がこの館の主でした。 館の主は、自分の一族や家来などと力を合わせて田畑の開墾にあたりました。
それがいつ頃であったかは、はっきりわかりませんが、平安時代の終わり 頃で、武士がこの世の中に現れ始めた時代だろうと思われます。
それまでの武士は、貴族からみれば、源氏や平家ですら、立って歩く犬ほど にしか見られていませんでしたが、それでも地方では有徳者でした。
有徳者というのは、年貢などの収入がたくさんあり、金持ちの有力者のことです。 この頃、世の中は乱れていましたので、土地を多く持っている地主や、中 央から地方への役人になった者は、自分の土地や家を、自分の力で守る必要があり、 屋敷も外敵を防ぐため、堀や土塁を築いていました。
この鳳面館ほうめんやかたもまわりに、2〜3メートル幅の堀があり、その堀の土は堀の内 側へ盛り上げて、土塁が作ってあり、中世期の構えを色濃く残しています。
明治十九年にできた地積図をみると、土塁と思われる所は、草生えとなって おり、まわりの土地より高いことが伺えます。
この館の坪数は、堀の内側だけでも一千坪もあり、さらに堀の外側に若党屋 敷や年貢を納める蔵も作られたことでしょう。
館の東側に逢妻女川あいづまめがわが流れ、南側に鴛鴨と三好を結ぶ古道があります。 水陸交通の便もよいこの館の主は、相当大きな権力をもった豪族であったと 思われます。

やまのこ

山の神様のお名前は、大山住命といい、日頃は目立たない山中の社にまつら れているので、私達も疎遠がちですが、考えてみるに、どこの村落にも必ず社 があるということは、昔の人にとって生活していくうえで、最も身近な神とし て存在していたと思われます。
春には里に下り、田作りに精を出す田の神として、秋の収穫後、近くの山へ 戻り、林業や、水源の神として、親しまれていたようです。
"やまのこ"は村の安全と豊作に感謝して、この神様を供養する祭礼で、昔 はたいそう盛大に行われていました。
村の世話人を中心にとり行う祭りですが、いつの頃からか、子供が参加し、 主役を務めるようになって、これという娯楽のなかった時代、子供にとっては 一年中で、一番楽しい一日であったかと思われます。
祭礼日も、山へ戻られる旧暦十一月七日に統一されていて、前日六日の前夜 祭はどこの村の子供も太鼓を打ち鳴らし、意気揚々と村中を廻ったものです。
廻り廻って、村はずれまで繰り出すと、隣村の同じ集団の子供らと勢いあまっ て、喧嘩をするようになり、"やまのこ"は誰言うとなく、子供の喧嘩祭りと 言われるようになっていきます。
喧嘩は次第にエスカレートし、大正初期には双方の子供らが、敵のいないの を見計らって、お互の"どんど"に火をっけ、逃げ帰るという売々しさを増して いきます。
このため、小学校では山火事の危険を心配し、子供に対して祭り参加を禁止し た時期もありました。
威勢のいい方へ話しが逸れてしまいましたが、本来の"やまのこ"は、祭り の早朝、社の前で行われる"どんど焼き"が中心行事で、山のように積み上げ られた"たきもの"にいっせいに火がつけられてそのクライ.マックスを迎えます。
大人達は酒を酌みかわし、子供等はおこわの焼きおにぎりや、ちくわ、こん にゃく、さといもなどの煮付けを、楽しげにほうばるのです。
"どんど焼き"の燠で焼いた豆ご飯のおにぎりは、病気にならないとの 言伝えがあり、以前はどこの家庭でも、おにぎり重箱につめて"どんど焼き" に持参し、お供えした後、焼いて食べたものでした。
(この風習は今でも一部の家庭で残っているようです) やがて山火事かと間違えるほど勢いの強かった"どんど"の火も衰え、消え かかる頃、祭りも終わります。
当時の子供がいかに"やまのこ"を心待ちにしていたのか、彼らの働きぶ りからもよくわかります。
例えば"どんど焼き"に使用される"たきもの"は十日ぐらいも前から集 めにかかり、下級生は麦がら、豆の木、わらなどを貰うために車を引いて家々 を廻ります。これらの物は日常用の燃料として各家にふんだんに蓄えられてい ました。
一方、上級生は河原に出かけ、台風どきに流されてきた材木片、枯れ木など を拾ってくるのです。
こうして集められた"たきもの"は大八車四、五台分にもなったといいます。
さらに、どんど焼きに食べるごちそうも、前日の夜、"宿"に集まった世話 人と子供らがタ食を共にした後、神様にお供えするため精をだして準備したも のです。
祭りの当日、夜明けのまだ薄暗さの残るなか、社へ通じる、早霜に覆われた 白いあぜ道を先頭きって駆けて行っただろう子供達。
そして、自分の思い出と重ねて、彼らにずっと理解と協力の目を向けていた だろう大人達。
村の行事を通してお互いに心のふれあいを育てていったことだろう。

杉社の由来

本地新田に杉社といわれる、さも由緒のありそうな塚があるのを知ってるかのう。
この塚にはこんな話しが伝わっているんじゃよ。
明治の初めの頃からじゃったかのう、この塚の周辺を掃除して、草を刈ったり、樹 木の枝を切り払ったりすると、必ずその家に病人やけが人がでたり、火事などの災難 に見舞われたものじゃった。
そのため杉本屋敷の一同が集まって、色々と相談をしてのう、原田海心という行者に、 助けていただこうということになったんじゃそうな。
そこで海心行者にお伺いをたてたところ、戦国の昔、戦いに破れたお侍の大 将が、手傷を負って、この地まで落ち延びてきたんじゃと。
しかし無念にもここで力つきてのう、自決して果てられたのを、家来が葬っ たのが、この塚だということじゃった。
きっと、その大将の霊が浮かばれないで、そのままこの地をさまよっていたの じゃなぁ……
そして、願わくば、この地の志士の方々に供養してもらえるならば、その子、 その子孫にいたる末代まで、家運の隆盛と、天災からの加護を約束するであろ うとの、お告げもあったそうな。
そこで、杉本屋敷の者全員で、塚を堀り起こしたところ、お告げのとおり、 刀や矢じりなどに混じって人骨が出てきてのう、皆で手厚く葬ってさしあげた そうじゃ。
その際、海心行者より、杉本の一字を頭にいただいた"杉社衿胴源"の姓を 賜り、杉本の先祖として、守護神とならんことをお祈りしたのじゃと。
明治三十五年一月十五日のことじゃった。
それ以来、毎年、その日を杉社の供養祭とし、お祀りをして、竹矢来を新し くしたり、草刈り、掃除などのお世話を欠かしたことがないという。 そして、災難もめっきり少なくなったそうな。

松元寺の本堂炎上

明治三十七年師走のできごとじゃった。 千足町字川端に住んでいた、加藤国五郎さんは逢妻女川あいづまめがわの下川原で、義母の おちょうさんと、大根のハザ掛けをしていた。
そうしたらお寺の方向に火が見えてのう、これは只事ではないと直感して、 国五郎さんはお寺へ、おちょうさんは自宅へ向かって、「お寺が火事じゃ!火 事じゃ!」と連呼しながら夢中で走り出していたと。
国五郎さんはお寺の本堂の南縁まで駆け寄ったが、それ以上近づくことがで きないほど、火の勢いはもの凄かった。
それでも騒ぎを聞きっけてきた村人と、宮口村の人達も加わって、火を消し にかかった。
その日は、旧暦の十一月二十一日、知立の三弘法の命日で、宮口村の人達は そのお参りの帰りに火事騒動に出会ったんじゃと。
北風が吹いてのう、それでなくても、火事になると突風が起きるものじゃ、そん な悪条件の中、猛火をかいくぐって淳孝住職が、本尊様を抱いて、転ぶように飛 び出してきた。
その姿を見た人達は、勇気づけられて、出来るかぎり、あらんかぎりの力をだし て仏具などを外へ運び出したそうな。
間もなく、本地本郷、千足、本地新田、明知上、明知下、乙尾など近隣の村々よ り消防隊も駆けつけて、消防ポンプによる本格的な消火が始まり、火の治まった のは午後六時を少し廻っていたという。
火を見つけるのが早かったのと、大勢 の人達の懸命な消火活動と、中庭の木々が延焼を防いでくれたなど、幸いな事 が重なって、書院も、庫裡も火災から免れた。
そうして、総代を始め、信徒みんなで力を合わせ、きちんと火事場の後始末 をして、大晦日には、国五郎さん宅へ仮安置してあった本尊様を、無事に書院 へお迎えすることができたのじゃった。
村の衆はさぞ胸をなでおろしたことじゃろうて。
その後、壇信徒より本堂再建の話がでてのう。
毎夜のように会合が開かれ、三昼夜ほとんど寝ずの話合いもあったという事 寺の再建には、なにより大枚な資金が必要じゃが、当時のお百姓さんは貧し くて、資金集めは並み大抵のことじゃなかろうて。
それでも、三年計画で寄付の勧募が行われることに話がまとまり、松元寺建 立という一つの目標に向かって、和尚も、壇信徒も歩み始めたんじゃ。
当時を振り返って淳孝和尚は 「あの頃、一反で五俵か、六俵の収穫しかなかったのに、その一俵のお米が、 たったの七円十四銭だった。
そのお米さえ、なかなか買い手が見つからず、人を頼んで、名古屋まで大八車で売りに行った。 ……何事も忍の一字じゃったよ」 と語っていたという。
貧しい生活をなおきり詰めて取り組んだ松元寺建立という、悲願達成を果た したのは、明治四十三年のことじゃった。
壇信徒、そして一般の人々の総力を挙げての資金集めは、総額五千四百円に も達したそうな。
現在、再建に功績あった人々は、皆他界されて一人もいないそうじゃが、二 代、三代と受け継がれている松元寺において、今もなお、春季祠堂・秋季祠堂 の折、読経の中にその人々の名前を読み上げているとのこと。
そして人は去り、時は流れても、お寺の繁栄と、かの人々の冥福を願い、朝 タに心をこめて読経がなされているという。

検地を断った庄屋

江戸時代の始め、松平大給城主、松平家乗の二男知乗(通称、伝兵衛)が本 地村の領主になったころ、本地村に原田太郎左衛門という庄屋がおらっしたそうな。
太郎左衛門さんは、戦国時代にどこかの小さな・領主だったとも言われている し、又、関ケ原の戦いの時、大阪方に味方した大名の家来だったとも言われているお人でのう。
いつの頃からか、たいそう支配的な勢力をもっておらして、本地村ばかりでなく、打越村や、 明知村まで、他人の土地を通らないでも行ける程、多くの田畑を持つ大地主さんじゃったそう な。
その上、領主の伝兵衛さんが旗本で、代々江戸暮しじゃたもんで、この庄屋さんが、 地代官として、年貢のち徴収など、諸事万端執りしきっておらしたから、 栄耀栄華も意のままじゃったろうて・・・
ところが二代目伝兵衛さんになった時、検地が行われてのう、検地とは、年貢を取り立てるのに必要 な基本台帳を作るために行うもので、新田畑については、十年くらいの間をおい て実施され、百姓に隠し田を許さない、それは厳しいものじゃたそうな。
太郎左衛門さんは、赤坂代官所の役人に検地を拒否し、新しく開墾した土地を測らせなんだそうな。
怒った役人は、太郎左衛門さんの土地や、家を没収し、本地村から追放してしまった。
その後、検地を断わった庄屋さんはどこへ行ったのか、今だにわからんということだそうな・・・

石になった弁天さま

むかし、むかしまだこのあたりが草深い山里だった頃のこと。
本地八幡社の神主さんが、はるばる、江戸へ出向いて、弁天さまを授かって来たんじゃと。
身の丈が六寸ほどの木彫りの弁天さまでのう、まるで五色に光り輝くような、 それはそれは美しいお姿だったそうな。
八幡社の近くの山に小さな祠を建てて、さっそくその弁天さまをお祀りしたんじゃと。
村人達は、毎日のようにそのお姿を拝見しにやって来てのう、誰もかれもが 「なんと美しく、お優しい弁天さまじゃ、心が洗われるようじゃ」 と.深く手を合わせたものじゃた。
いつしか、この弁天さまの噂は、遠く離れた里、又、里にも伝わり、参拝す る人は後を絶たなんだそうな。
ある日のことじゃった。 「わしも、一目弁天さまを見てみたい」 と一人の若い男がやって来てのう、御多分にもれず、弁天さまに見惚れて、時 のたつのも忘れてしまった。
いつの間にか、日も暮れ、あたり一帯が薄暗くなって、祠の前にはその男一人 になってしまってのう、ふと気がっくと、男は両手に、弁天さまを抱きかかえ、 無我夢中で走り出していたんじゃと。
そしたら、ものの一町も行かないうちに、木彫りの弁天さまが、石のように 重く、冷たくなって、男の身体も思うように動かなくなり、一歩も進むことが できなくなってしもうたそうな。
「これは、いったいどうしたことじゃ……ひょっとしたら弁天さまの崇りで はあるまいか」 と思うが否や、急に恐ろしくなって、 「弁天さま、悪うございました。亡くなった母の姿が思い浮かび、つい懐かし くなって……悪うございました。」 男は後悔の涙を流し、何度も、何度も頭を下げたんじゃと。
するとどうじゃ、あんな石のような弁天さまが、また美しく、優しい姿にも どったという。
男は心からお詫びをして、元の祠に丁重にお返ししたそうな。
あれから、幾年もすぎ、ほこらの傷みに伴って、弁天さまは、八幡社の神 主さんの家に祀られることになった。
しかし、今なおこの里の人々は、祠のあったあたりを、弁天と云い、代々 語り継いでいるということじゃ。


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