| 愛知県豊田市 |
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もくじ
まえがき 空と川面の中間に霞たなびく春むらさきのタ暮れどき…… 五月雨に濡れそぼつ若苗のもえぎ鮮やかに深みゆく日々……
黄金(こがね)の稲穂刈り終えし甘い匂いただよう日だまりのあぜ道……朝日の眩しさと鈍色(にびいろ)の陰が小気味よい調和をみせる霜枯れの野辺…… この四季の向うに ずっと古(いにしへ)もちょっと昔も、そして今も、もちろん未来へ続く明日も、すべての息吹にむかって 一と年代上のお年寄りなら、さぞ面白い話ができただろうと思うと悔やまれるのだが、 今さら詮のないこと。 そこで、この冊子の意図とお見うけする その一 当時(昭和10年〜)
しかし、水害という、悪いことぱかりではなく、楽しみもあってね。川には
この水車へ水を引くための"どんどん"と呼ぱれている堰が、数ケ所、設けて
あったんじゃ。その"どんどん"の土嚢を積んだ、下の土管に必ずうなぎが潜
り込んでくるからだわねん。だから増水の次の朝は、先を争って川へようすをみに行ったものだった。 うなぎぱかりか、魚は多かったでね。 はえ、もろこ、とちかぷ、赤なまず、どじょう……… 澄んだ水にすいすい泳いだり、砂に潜ったりするのが、手にとるように見え ていたっけ。 竹筒のやなをかけると、一度に30匹は下らないほど、たくさんの魚が捕れた ものだったし、ちよっと釣り糸を垂れるだけでも、晩のおかずはできたもんだっ たぞん。 話題のうしもつご(うしもろこ)なんぞ、川にいっぱい泳いでいたがねん。 今はそんなに、珍しい魚になってしまったのかねん。 そうそう、水車小屋があってね。 川の水嵩があまり多くないから、ギィーコットン、ギィーコットンとそれは のどかに米をついていたものだったよ。
しかし村の、のどかな風景に反して時には、思いがけないことが起きるものじゃ。
米泥棒が出没して、つき上がっているはずの米を、翌朝取りにいくと何も無かっ
たという話は、よく聞いたものだがねん。家にいれぱ、仕事を言い付けられるので、わしら子供は日が暮れるまで、外 を飛び廻ってのう。河原にしろ、山の中にしろ、たいした道具はなくとも遊び にこと欠くことがなかったっけ……… こま回し、ケンパン、竹馬、かいどり、凧あげなどやったものだったが、一番 の遊びは"兵隊ごっこ"だった。 樫の木の林の中で、人一人がやっと歩けるくらいの細道を通し、その奥まっ た所に"陣地"を設けて、なんだかんだと作戦を練ったものだったがねん。 そういえば、木登りは皆、得意でのう、栗の木によじ登り、枝が折れては 落ち、足がすべっては落ち、幾っコブをつくったか数えきれなかったよ。 それでも凝りもせず又、登ったものだったけど、不思議と大きな怪我をしたと いうことはなかったねん。 遊びというものを、心と身体の両面で理解し、楽しんでいたからだろうか。 その二 きつね
きっねは、多かったなあ……化かされたという話もよく聞かされたぞん。 法事なんぞで千足村へよぱれて、お酒をごちそうになっての帰り道、ほろ酔いかげんで新池のあ たりまでやってくると、いつの間にか道も畑も一面海になってしまうそうじゃ。 波は打ち寄せてくるは、深みに落ちこむはでおぼれまいとして、一生懸命に背伸びしたり、泳い だりしていたそうだ。 そして気がついてみると、土産に貰ったぼたもち、油あげなどの詰まった重箱は取られて、野畑 の中をつま先立って歩いていたと………
きつねが弁当を狙っていたずらをするといわれていたっけ……… その他にも化かされて方向を失って、とんでもない所で迷子になっていたと いう話や、朝、風呂場の炊き口で暖をとって眠っていたきつねに、 家人が驚いて腰をぬかしたという話もあったわねん。 わしらも恐ろしがってぱかりはおられんでのう。
鶏を盗られて、羽根の散らばっている跡を尾けて行くと、きっねが住処にしている木の虚や洞な
どを見っけることができてのう。今度はこちらがいたずらぎっねを懲らしめようと、松の枝を燃やして燻りだすんじゃよ。 今思うと、お互いに共存を認めあった、人間ときっねのかけ引きだったかなあ。 しんしんと光を放つ鋭い目、ふさふさの立派な尾、あの凛とした勇姿を、もう この きっねさえ住みにくくなった環境が、はたして人間にとって、本当に住みよい環境なのだろうか ふと、郷愁まじりに考えてみた。 その三 生活と風俗 天王祭(七月十四日)
田植えの後の娯楽として、その年の青竹の笹に、ろうそくをともした赤羽提灯を吊るしてお参りする。その昔、子供の流行病の平癒をこめて、津島神社からお札を、お受けして祀ったという。 茂一稲荷祭(旧二月初午の日) 村の若衆が素人芝居や、万歳の稽古をして祭りを盛り上げ、色鮮やかな 吹抜きが立てられた当日は、社の裏の鏡のような池も賑わいで揺れたという。 神事を祝い、餅投げをしたこともあり、遠方より人が集まったものである。 馬頭観音祭(旧二月二の午の日) この地の主たる産物であった磨き砂の運搬は、馬に頼っていた。
余談なのだが、当時、磨き砂はいくら掘っても、飛ぷように売りさばけたものだから、
亜炭掘りと相まって、貞宝周辺から、宮口神社のあたりまで、数え切れないほどの穴があったはずだがね。穴は迷路のように二層、三層にもなっていて、人がトロッコに立って乗って いけるほどの高さもあり、横溝には冷たい清水が流れていた。 ちょっと危険な遊び場だったけれど、カンテラを下げて、人夫のおじさんに トロッコ乗りをせがんだものだったよ。 懐かしいカンテラで思いだしたけど、灯は貴重なものだったぞん。 第一、電気が夜だけで、昼間は送電されなかったでね。
そりゃそうだわねん、テレビ、冷蔵庫はもちろんラジオさえ、有るか無いかの時代だもん、
おてんとう様がおらっせる間は電気はいらんわね。夜でさえ、一家一灯という言葉があるように、一つの電球を長い コードで引っ張って、あちこち移動させたものだったがね。 食事の時は、おかってへ引っ張り、縄ない、むしろ織り、みの作りなどの夜 なべ仕事の時は、土間へ引っ張るというぐあいにね…… 蛍狩りも楽しかったけれど、蛍の竹籠を枕元において、心ゆくまで眺めて眠りについたっけ…… 蛍の光窓の雪は中国だけの話じゃないぞね。 そして終わリに 春には鮮やかな山つつじに誘われ、わらび、ぜんまい、ぐみ、ゆすら、野いちごを探し歩き、 桑桃の色づく初夏には、学校帰りを待ちかねて、桑畑にかけ込み、口のまわりを真っ青に染めて、 互いの顔を笑いあったっけ…… 秋祭りの近づく頃には、腰に籠をっけ、カサカサとかすかな落葉の音を踏みしめて、きのこ狩りに心せかされたものだった。 そして、青はっ、しめじ、ろうじん、金銀きのこ、あしなが、松茸など竈一杯ぐらい採るのは、朝めし前のことだったよ。
いつの頃からだろう、地場産業の中心が養蚕から養鶏へと移り変わってゆくのを転機に、
宮口一面の桑畑がタバコ畑に、さつまいも畑に、麦畑にさま変わりし始めたのは……いつの頃からだろう、 山の畑の桑の実を、小籠に摘んだはまぼろしか |
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