本地八幡社 【献馬】

  
「本地八幡社の祭礼は、今は御輿と餅投げが
行われているけれど、昔は馬駆けという行事
があったとか…… どんなお祭りだったの?」
  
「ほだなぁ 昔の祭りは毎年十月十五日と決め
られていて、神事として巫女舞いと献馬が
奉納されていたなぁ。 前前日の十三日には
各部落の氏子によって、祭りの準備としてノ
ボリ立てや馬場作りが行われていた。北木戸
に集まった氏子たちは、その年の当番部落を
先頭に境内を進み、ビクで運んできた山砂を
撒いて地面をならし、晴れの日の舞台となる
馬場作りに念には念を入れたもんだった。
 当日献馬を担当したのは幼年会(15〜19才)
の若者達でのう、前日から馬宿に泊り込み、
標具(ダシ)をたて、馬具で飾りつけた馬を
意気揚々と引き回した。
 馬付人の装束といえば、リーダーは黒羽織の
正装だったが、あとの衆は白の長袖シャツ
に腹かけ、紺の股引、白足袋に草鞋ばきと
いう勇ましい格好だったね。
 一頭の馬に前二人、後四人の付人がついて、
きれいに整備された馬場を、最初の七回は
歩き、次の五回は駆け上がり、最後の三回は
総下りをするのが習わしでのう。七、五、三
まわりをしている内に、付人の若い衆も馬も
だんだん気合がはいってきて、観ているわし
らも興奮して思わず歓声をあげたもんだよ。
 献馬は本地本郷二頭、本地新田二頭、千足川端一頭の奉納で、この5頭の馬を揃えるの
が一苦労でのう、刈谷などの他郡村へ借りに行く総代さんは頭が痛かったということだ。
草競馬用の馬を借りてきた時は大変だったらしいぞん。扱いに慣れていない馬付人達は、
元気でよく走る馬を治めるのに、必死にしがみついていたっけ…
 あの真剣な姿にも感動したもんだ。 興奮するやら、感動するやら、今思い出してもあの
頃の祭りはよかったなぁ」

「ふーん、じゃお祀りしてある神様もきっと雄々しい方なんだ」

「確か武神として名高い八幡神の応神天皇だと聞いているけど…
百姓ばかりのこの村にどうして武士の守り神、八幡神を祀ったんだろうね。
 鳥居のそばの縁起についての立て札を調べるのも面白いかもね」

      鎮守の杜は見ていた
 縁起の立て札には、品陀和気命(応神天皇)
・息長帯比売命(神功皇后)・武内宿祢の名
前が記されていますが、神功皇后は、第十四
代仲哀天皇のお妃で、応神天皇はその皇子で
す。神功皇后は九州の熊襲や朝鮮の三韓征伐
の記述で、戦前の教科書にも載っているほど
の大変勇ましい女性だったようです。
又、武内宿祢も九州・朝鮮の両征伐に従軍し、
大きな功績をたてた武将とのこと。
この最強の三人は、武勇を貴ぶ武士にとって
崇拝してやまない神様だったことと思います。
 清和天皇の流れを組む源氏の氏神さまに
なったことから、さらに武神としての性格が
強まり、八幡神を祀った八幡社は各地の武士が
、守り神として競って勧請したことでしょう。
この地方にも十四社あり、その一社である
本地八幡社も誰だか解っていませんが、
きっと名のある武士が勧請し建立したものと
思われます。
 江戸時代、本地領主の松平但馬守知乗に篤く
崇敬されて、社殿の再建がなされ、松平家の
祈願所となり、その後の領主にも土地や灯篭を
寄進されたという記録も残っています。
本地八幡社の今の社格は十一級社、村社から十一級社の郷社に格上げされ、盛大な祝賀
行事が行われた年、紀元二六〇〇年は西暦一九四〇年に当たります。
(紀元年は西暦年に六六〇年をプラスしたもので、ちなみに来年の西暦二〇〇〇年は紀元
二六六〇年になります)
 当時を物語る標柱が二本、手洗い場近くに保存してありますが、境内は約八九〇〇平方
メートル、近郊の八幡社十四社中の二番目に広く、三〇〇年以上の桧の巨木が繁って鎮守
の杜をなしていました。戦争ごっこをしたり、椎の実をひろったり、落ち葉焚きをしたり、
人それぞれに思い出ぶかい杜も、昭和三十四年の伊勢湾台風で全部の巨木が倒れ、様相が
一変しました。
その後、人々の努力で植林がされ、新しい杜が緑の木陰をつくり、美しい桜のお花見が
できる憩いの場所として親しまれています。
本地本郷・本地新田・川端の三部落を氏子とする、本地八幡社の祭礼日は、十月第四日
曜日、元気なこども御輿が自治区内を練り歩きます。

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