民俗芸能の章


宮口神社 【棒の手】

  
 「宮口神社のお祭りに棒の手の演技があるで
しょう、あれって歴史の古いものなの?」

 「棒の手はおよそ四五〇年ほど前、尾張岩崎
(現日進市)の城主の命を受け、鎌田兵太寛
信が領民に棒術の技を伝授したのが始まりと
いわれる。やがて宮口の住人深田左兵満孫が、
その奥義を極め、鎌田流として三河地方に広
めていった。
 その中で宮口村は鎌田流の総目録の恩恵を
受け、羨望の的であったといわれている」

 「棒の手には鎌田流の他にも流派があるの?」

 「隆盛を誇っていたころは、荒木流・山科流
源氏天流・起倒流・神影流・見当流・融和流
武蔵流・検藤流・無二流・夢想流・我心流など
各地で色々派生していたようだなぁ。
確か千足の棒の手は融和流だ。
 
戦力として編み出され、普及した棒の手だ 
ったが世が治まるにつれて、猿投神社や宮 
口神社の祭礼に、演技奉納という華やかな 
形で継承されて、長い歴史を培ってきた」

「それからずうっと続いている?」
 
「いや、大正末から衰退の一途をたどるよ 
うになり、戦争中は時勢に伴い、奉納は中 
断となってしまった。
 しかし戦争が終わり、世の中が落ち着き 
を取り戻したころ、地内の古老や関係者の 
運動も実を結び市・県の無形文化財の指定 
を受けるまでに復活してきた。
 そして伝統技の披露と保存を兼ね、宮口 
神社の祭礼に再び奉納されるようになった 
んじゃよ」

    

宮口棒の手は強かった

古文書にも記されている棒の手は、歴史上有名な戦いにも、たびたび登場していたと思わ れます。戦乱の世が治まるころ、猿投神社祭において、技量上達の村民が、献馬の警護及 び、棒の手奉納という栄誉ある役を受けるようになり、村々で合属(合宿)とよばれる集 団を作り、さらに技の研鑚に励みます。 猿投合属(猿投村)、寺部合属(寺部他28ヶ村)、広沢合属(加納他5ヶ村)、四郷 合属(四郷他11ヶ村)、川通合属(東広瀬他20ヶ村)、松平合属(松平・大楠他8ヶ村)、 桑部合属(桑部他28ヶ村)、南尾張合属(田籾・米野木他28ヶ村)などが今も名を残 している合属です。 なかでも宮口合属は宮口・本地・千足・打越・明知・土橋・乙尾・大林・莇生・三好・ 下伊保・亀首が加わった最強の合属だったといいます。演技奉納前の数日間は、どこの 合属も斎戒沐浴に心がけ、飲食を慎み、心身を清めて晴れの日に備えたようです。 晴れの日の行装は陣笠を冠り、自家の定紋を画いた陣羽織・胸当てを着け、三尺帯を 結び、手甲脚絆にわらじをうがち、ほら貝を吹き響かせ、種子島銃の空砲を交え、錦秋目 もあやな、鞍置献馬を率いて、さぞ見事な行列だったことでしょう。 又明治二十三年三月二十九日 名古屋別院において、宮口村の篠田文二郎・金次郎の 両名が、明治天皇の御前にて、鎌田流棒の手の天覧の光栄に浴したという記録も残されて います。 「すごいね!棒の手保存会の人は四〇〇有余年の伝統を引継いたことになるんだ!」 「そうだなぁ。でも伝統は引継ぐだけではダメだよ。 その人なりに、次の代に伝える技を磨く努力と熱意を持たないとね。 それが伝統を引継ぐ者の心意気だと思うよ」 「私ね 今度から棒の手を、もう少し違う見方をしてみるわ」 「棒の手の演技は間の取り方、打ち込まんと する時の目配りなどが、まさに真剣勝負その もので気迫に満ちているといわれている。 きっと思わず息をのむような、演技が見られる かもしれないよ」 毎年十月第四日曜日、宮口神社の祭礼日。 上・新田・一色の宮口三部落の保存会の 一行は、神社の鳥居前に集合し、昔その ままの装束で、水垢離の儀式を行なうため、 逢妻女川へ向かいます。 女川で心身を清めた一行は、再び鳥居下へ 戻り、神主さんの御祓いを受け、神殿と棒の 手顕彰碑に参詣して競技の安全を祈願します。 そして鉄砲隊による、種子島銃の号砲を 合図に、演技の奉納が始まります。 ヤーホートーの掛け声も可愛い豆剣士。 凛々しい身のこなしの少年剣士。相対する 二人の息のピタリと合った熟年組の演技が 続き、保存会の人々による日ごろの訓練の 成果が披露されるのです。

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