当時 挙母の町の人口は三万人余、勤めで生活を支
えていた人、いわゆる勤め人は少なかったのですが
その人たちの給料が、3000円ぐらいと言われて
いました。 同じ時期一枚のカッターシャツは2500円、 革靴は4000円したといいます。 いかに、品物が無かったか価格が明快に示しています。 国からの配給品として、桑の木の皮の繊維で作った ジャンパーやズボン、ララ物資といってアメリカ からの援助による、中古衣料などが出まわり始めますが それさえも抽選でやっと手に入るという有様で、 よその家で着られなくなった古着をもらってきて、 そそくりやつぎはぎをして着まわします。 そのうちに着古るされたボロ着を糸にもどし、毛や 木綿の素材が混ざり合って、はた織りされた再生品が 大量に出まわります。この衣料がガラ紡着です。 安いこともあってもてはやされ、(ガチャマン)という 当時の流行語を作りました。 ガチャンとハタオリすれば、万の単位のお金が 稼げるという意味です。 食物は衣料よりさらに手に入れるのは困難となり、米農家でさえ米の供出が義務づけ られてタンポポ、セリ、芋のつるなどの雑炊が主食の暮らしが続きました。 配給された主食券はうどんやパン数個にも交換できたけれど、とうてい一家の食生活を 満足させるようなものではありませんでした。 学校や職場への弁当は麦飯に梅干しだけ、たまに醤油焼きした油揚げが一枚入ったのは、 たいそうなご馳走弁当で、いそいそと開けたものでした。 一度でいいから腹いっぱいご飯が食べたい… 一度でいいから丸ごとハンペンをかじってみたい… 一度でいいから一本のバナナを味わってみたい… こんなことが夢のような願い事でした。 |