紅白饅頭から日の丸へ

     
 一月の四方拝、二月の紀元節、四月の天長節、
十一月の明治節…三大節などの大きな式典の
行われる日は、勉強嫌いの子供たちも朝から
わくわく落ち着きません。
 教室を二つ続けた式場に、服装を整えた
先生や地元の有志が並び、礼、直れのあと
直立不動のまま、校長先生や来賓の難しい
話が長々と続きます。厳粛な雰囲気のなか
にも子供たちは飽きてきて、前の子をつつ
いたり、コソコソ話しが始まります。
担任の先生も目で叱ったり、そっと後ろへ
まわって制したり大変です。
一同礼の号令でやっと式場から開放されます。
そして待ちに待った紅白のまんじゅうが
もらえるのです。
多分だれも食べないで大事に家まで持ち帰
ったと思います。
時計の針の進みさえものんびりしていたような
日々は、いつまでも続くものではありませんでした。

昭和十二年以降人々の話しの合間に戦争という言葉が使われるようになり、新聞にも軍事
教練、銃後より戦線へ、防空防護の体勢などの文字が目立ってきます。
消防団も警防団と名をかえています。
神聖な学び舎においても『ススメ ススメ ヘイタイ ススメ』の可愛らしい声が響いて、
それは誰の耳にも誇りたかくさえ聞こえました。
小学校は国民学校と改称。
教育が人のためではなく、国のための感を深くしていきます。

      そして第二次世界大戦(太平洋戦争)勃発。

勉強の時間は目にみえて少なくなり、変わりに軍事の応援作業として、干し草作り、イナ
ゴ取り、どんぐり(栃の実)拾い 桑の木の皮むき、昭和十七年七月 名古屋航空隊が発足
した伊保原飛行場の石拾い、人手の足りない出征兵士の家の農作業奉仕などが高学年に課
せられた授業になります。
出征兵士の家庭には”誉の家“とか”応徴の家“の表札が掲げてありました。

 
校庭に広げて乾燥させた刈草やイナゴは
知らないうちにどこか へ送られていて、
食料や軍馬の飼料になると教えられました。 
又どんぐりは油を取るため、桑の木皮は
その繊維で衣服を作るための大事な軍事
作業だとも聞かされました。
お役にたっているんだと自分自身に言い
聞かせ、お互いに励まし合ってもいました。
  手旗、ロープ、防空の訓練も教育と
名はついていましたが、 軍事色の濃い
訓練でした。
食糧増産のため、全面いも畑になった
校庭には、防空壕も掘られ、校舎の
窓ガラスは半透明な銀線ガラスに変わり
(ガラスが不足して盗難が多く一般家庭の
それと区別するため)学校生活で一番
思い出に残るはずの修学旅行さえ、
鉄道業務が軍事物資を優先輸送するため
に中止となっていきます。
”お国のため少国民も汗を流す“を合い言葉に、子供たちの心も知らず知らずのうちに戦
いへ闘志を高めていったのです。
 家庭においても灯火管制がひかれ、明かりが外に漏れないよう電灯のかさに黒いジャバ
ラの筒を取り付けて、夜わずかな明かりの下で勉強、夜なべ、兵士の慰問袋作りをひっそ
りと行ないました。

 ・昭和十六年米穀配給通帳制度実施
 ・十七年十一月衣料切符制実施
・二十年七月主食配給一割減の二合一勺となる

 村においても大招奉載日を定め、日参団が誕生し、
毎日夕方になると本郷橋の上に集合しました。
先頭に赤い日参のぼり、後尾には白い武運長久
のぼりを立てた列をつくり、日参のたすきをかけ、
大声で軍歌を歌いながら、宮口神社と浄覚寺へ
お参りし、戦勝祈願を行いました。
”欲しがりません 勝つまでは“ の言葉は、
必ず勝つと信じて疑わなかった人々の切ない
けれど、気迫せまる決意の表われでした。

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