【宮口新田のお隣りさん】


 小清水小学校がまだ挙母第三尋常小学校
と言われていたころのこと。
学校の真向かいには校長先生の官舎と
(校長先生はとても地位の高い方でした)
小使いさんの家があり、小使いさんは毎朝
校門を開け、分団登校してくる子供たちを
笑顔で迎えてくれました。
 先生方の使い走りや、校庭の掃除、壊れ
かかった機具などの修理をするのはもちろん、
お弁当の時間には、湯を沸かした大きな
やかんを、ぶら下げて教室まで持ってきて
くれたり、チリンチリンと授業の始めと
終わりをつげる鐘を、鳴らすのも欠かせな
い仕事でした。 
夕方学校内の見回りをし、戸締まりをして
小使いさんの一日が終わります。だから
誰よりも一番学校を知っていて、誰よりも
一番学校を大事に思っていた人だったかも
しれません。
 よく教材用の粘土を採りに行ったねんど山は、
目の前の小高い丘陵地で、虫おくりの
どんど焼もここで行われました。
 虫おくりは害虫の発生する初夏のころ、手作りの松明に火をつけて田んぼをまわり、松
明の明かりに群がってくる害虫を、松明共に焼いてしまうという農行事です。総出の村人
がどんど焼を囲みながら、重箱に詰めた里芋、こんにゃく、ちくわ、豆の煮物を肴に、酒
を酌み交わす、団欒の場でもありました。
 学校の東側は、中部電力の鉄塔の電気工事をしていた石原さん家。当時は珍しかった電
話機が置いてあり、モールス信号のような音をたてて呼び出しのベルが鳴って、住家とい
うより事務所のような感じでした。
音吉さんは二毛作(同じ田畑に一年に二度作物を作ること)のさら田に溝を掘り、ヤナを
架けてはドジョウやウナギを捕って、香ばしく焼いてお金に代えていました。ヤナが架け
られない冬場の収入源は、鉄砲を肩に3匹の猟犬を従えて、学校裏の広大なやぶ林で行な
う鳩撃ちでした。


 鳩は鉄砲の音に驚いて飛び立っても、元の巣に帰ってくるという習性があり、一羽撃っ
てはやぶの中でじっと座って、戻ってくる鳩を待っている音吉さんの猟は、春まで続くの
でした。ハトめしは美味しいご馳走でした。
 音吉さんの娘でりんさんといわれるお産婆さんは、この逢妻一帯で誕生したほとんどの
赤ちゃんをとり上げて、その赤ちゃんを大きくなっても覚えていたという頼もしい人で、
今も健在でいらしゃいます。

 おのサは大規模な養蚕を手がけるお百姓さんで
したが、蚕の飼育に関する知識は、農業会から
指導に来る先生も舌を巻くほどだったといいます。
「かいこが腐る」という言葉があるくらい蚕は、
環境の変化に敏感な生き物です。色々と苦い経
験を重ねながら、蚕のいる部屋の通風や練炭に
よる保温、餌の桑の葉の与え方などに、それぞ
れの工夫を凝らし、身をもって得た知識だった
と思います。
 蚕の山あげは家族だけでは手が足りず、
手伝いを頼むほどの大仕事ですが、休み時間に、
駄菓子屋のおぬいばあさんの作った
あんころ餅を食べるのが楽しみで、
誰かがあんころ餅を50も食べたと愉快な
話しに花が咲いたものです。
 山あげとは、繭を作る直前の蚕(桑を食べなく
なり、体も透明がかってくる)を、ワラを編み込ん
でジャバラ状にした(山)と呼ばれる床箱に
移し替える作業です。
 さらにその(山)に引っかかって繭になったのを、
取りはずす繭かき、取りはずした繭の汚れた糸
を、とり除く繭くり、これらの手作業を経て、
白い布袋に詰められた繭は、やっと出荷となり、
荷車などで加茂蚕糸へと運ばれて行きました。
 駄菓子屋さんの並びに、宮田医院酒井薬局があり、医院のご主人は小学校の初代
校長を務めておられたので、お医者さんは多分奥さんだったと思われます。
そして同じ敷地内で薬局を開いていたのが、その奥さんの妹さんだということです
ので、当時まだ雲の上のように貴重な存在だった、医者と薬剤師を姉妹で、しかも
同じ場所でなさっていたとは……
 趣のある茅葺きの門をくぐって、待合い室へ入ると微かに薬の匂いがしました。
ドキドキしながら、大きく息を吸ったり吐いたりして診察を受け、調合してもらった
薬を大事に持って帰る時はなぜだかホッとしたのをよく覚えています。
 でも風邪ぐらいではあまり、お医者さんにかからなかった時代でした。

 地続きの土地に火の見やぐらと、コンクリート
作りのモダンな格納庫がありました。
格納庫の中には、手押しポンプ車とホースの入った
箱車が保管され、どこかで火の見やぐらの半鐘が
鳴ると「いざ火事だ」とポンプ車と箱車にロープをつけて、
火事現場まで引っ張りながら走るのです。 
 いつだったか、野見方面が火事という知らせが入り、
救援に駈けつけようとしたことがあります。
ポンプ車と箱車のロープを引っ張り、後ろから
押しながら、小坂の坂を下りきった頃には、
すでに鎮火していたという話しが残っています。
 そうそう耕三郎という名から桶耕と呼ばれていた
桶屋さんもあったっけ……
木板を滑らかになるまで鉋で削り、文字どおり水も
漏らさないようピッタリ合せて、タライや水桶
や飯びつを作っていました。店さきで、あぐらを
かきながらトントンと軽やかにタガをかけていく職
人さんの姿は懐かしく、今になってあの腕前の確かさ、
巧みさに思わず唸ってしまいます。
 浄覚寺の門前には、挙母の町の造り酒屋から
仕入れをして品数も揃っていた酒屋さんもあり、
農業会の取り持ちをして、畑で収穫した麦などと
塩味のパンと交換できました。
 こまへいサの家へ、竹やぶで拾い集めた竹の子の
皮を持っていくと一銭、二銭の小使いをくれ
ました。竹皮は草履やその鼻緒、おにぎり弁当の包み、
計り売りする肉の包装などに広く使われていました。

 浄覚寺の道を女川へ下っていくと、本郷橋へ突きあたり、そのたもとには、
コンクリートでしっかり固めた堰があり、学校から帰った子どもの遊び場でした。
堰には板の扉が水を止めていて、それを開閉して、田へ引く水を調節していました。
 又、五つの石臼が並ぶ大きな水車小屋もあり、ゴットン、ゴットンの音を響かせ
ながら、米を搗いていました。ここには小屋の番をして、搗き具合をみる車屋は
いなくて、小屋の鍵は世話役さんが管理していました。
 その昔、この付近の川べりには、壕族の篠田屋敷があったと伝えられ、その屋敷を
取り囲むように集落があったものと思われます。治水のされてない女川は天候に
左右され、洪水を繰り返していたらしく、堪り兼ねた村人は上の高台へ集落ごと
移り住んだと言われています。
 これが宮口新田の新田の由来といわれ、又、やぶ新田と陰口をたたかれるほど、
竹やぶに覆われていた土地だったとのことで、開墾に明け暮れた当時の人々の苦労が
忍ばれます。



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