地場産業 養蚕


「おじいちゃん おかいこさんってとても可愛い
言葉だけど、それが市の主な産業だったって
どういうことなの?」
「ほだなあ  豊田市がまだ挙母いわれていたころ、
今の産業文化センターの付近に、加茂蚕糸という
東西加茂郡を代表する、大規模な製糸工場が
あってのう。当時で100人もの女子工員が寄宿し、
生糸の生産高も県下で屈指の工場だった。
 他に現金収入の少ない農家は、おかいこさん
(蚕)を飼い、繭を加茂蚕糸に出荷して現金を
稼いでいたから、村中がおかいこさんの増産に
励んだもんだった」
「農業もしていて、おかいこさんも飼ったの?」
「田植え、田の草とり、稲刈りなどの合間をみて、
ほだなぁ 年三〜四回の養蚕をしたなぁ。
 春蚕 夏蚕 秋蚕と呼ばれ、卵から孵ったボウフラ
ほどの幼虫が5pも大きくなり、繭を作るまで
約40〜50日かかる。
蚕が大きくなるに従い、コモを被せた蚕のざるも増えてゆく。
家中が蚕棚であふれて、寝る場所もなくなってしまうんじゃ。
わしら子供たちは蚕の食べる桑置き場の隅で蚊帳を吊り重なり合うよう
に眠ったもんだった。
蚕は成長も早いが、食欲もすさまじいほど旺盛で のう、絶えず桑を食べて
いてサクサクサクという音が今でも耳に残っているようだ」
「蚕って蛾の幼虫でしょう?」
 「糸を作るカイコガちゅう蛾の幼虫らしいのう。
  よく見ると可愛らしくてのう、4回の脱皮を繰り 返しながら5令期をむかえると、
透明な黄色をお びてきて(色むという)桑もほとんで食べなくなり、
頭をもたげじっと空を見て過ごすぞん。
そしてさなぎになるために口から糸をだし、自分の体を包んで繭を作るんじゃ」

      工業化への第一歩
 一回の繭の出荷は50〜60貫(約200s)、一つの繭で650〜1000mの絹糸が
とれたということです。蚕の餌は桑の葉で、逢妻の野山のほとんどが桑畑で、野菜畑はわ
ずかなものでした。桑は春に紫色の甘い実をつけ、子供たちのとっておきのおやつでした。
 生産された生糸は、高価な絹織物やパラシュートの材料として、外貨を稼ぐ大事な輸出品
でした。
昭和初期、養蚕産業は頂点に達し、
挙母近辺に40もの工場が集積して
いましたが、世界恐慌期に際し、
国の桑園整理政策が実施され、
製糸工場は減少し始めます。
 それに加え輸出国との戦争により
輸出も途絶えます。
自国の軍需工場としてパラシュート、
弾薬嚢などの資材生産で細々と残存して
いましたが、広大な桑畑も食糧増産の
掛け声とともに麦畑やいも畑に姿を
変えてゆくのです。
  そして昭和十三年トヨタ自動車が進出し、
戦後の急激な拡張も伴って、挙母の町も
めざましい発展をとげます。
そして豊田と市名も変わり、30万人都市の
仲間入りを果たします。
かっての養蚕業の繁栄が、大きな基礎に
なっているといっても過言ではないでしょう。
  
        夕焼けこやけの赤とんぼ
           負われて見たのはいつの日か

         山の畑の 桑の実を
             小籠に摘んだは まぼろしか


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