愛知県豊田市 逢妻女川あいづまめがわ むかしむかし あのね| 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |

字屋敷探訪

昭和三十四年、大字、小字名が廃止となり、味もそっけもない何丁目に変わっ てしまいましたが、それでもお年寄りの話の中に、今もなお懐かしい字名の地 名が出てきます。
そのどれを取り上げても、我が本地村の歴史の古さを物語るもので、胸躍る郷愁を誘います。
その昔、本地村の中心地だったと思われる"字屋敷"という地名の周辺、どなたのお屋敷があったのだろうか。
かの名高き庄屋の太郎左さんだろうか、それとも領主の伝兵衛さんだろうか? そんなこと、断じて有り得ないなどと、歴史の正統論をふりかざすのは、さ ておいて、ここではロマンだけを求めて、その頃からこの地にあり、当屋敷の 主人も朝夕にふり仰いだろうと思われる三本の樹木にスポットをあててみました。
移り気な時代の流れは出会いと、別れを繰り返し、お屋敷の主人も次々と去っ てゆく中で、三本の木々は無言のまま、果てしない時を刻んで、辺りを圧する 巨木となってゆきました。

そのうちの一本、モクノキは、寄る年波と、虫害という現代病に打ち勝っこ とができず、静かな枯れ死を迎えます。
昭和四十九年のことでした。
もう一本のクスノキも、その少し前に激しい自然の変化に耐えきれず、公害 が心配されて、伐採されることになりました。
しかし、その勇姿を惜しんだ人々によって、仏像と姿を変え、大乗教へ寄贈され、今もな お、大勢の信者のお参りを受けているということです。
残る一本、クロガネモチの老木は今も健在 で、雨、風、雪、日照りなど自然の脅威に耐えぬきながら、かっての雄々しさを失いつつ も、穏やかなたたずまいをみせています。
幹回り根回りの頑固な風情に豊かな年輪を感じさせ、市より名木の指定も受けて、その 家の今日の主人に我が家の遺産とまで言わしめております。
老木の根元には、この家の遠い先祖を偲ぶかのように古墓が御遠忌されていて、その伝説を訊ねてみました。
五輪石碑と名を刻まれた墓は、書き残された書物よりはるか古い時代からそ こにあったといわれ、一説には旅の行者さん、しかも女の人の墓だと云う。
さらにその女の人の霊は墓本体に納まっておらずに、なぜかお供えに使う水 茶碗に漂っていると云う。
「だから、あまり粗末に扱えなくて、わしが丁重にお守りして朝夕お参りを欠 かしたことがないんじゃ」 とその家の主人はさも愛しげに話されました。
老木のわびた貫禄といい、石碑の寂とした風情といい、古代のかすかな息吹 に触れた想いがして、単に歴史を重ねた遺物として扱うには、なぜか戸惑いを 感じます。
こういうのを、日本人の心というのでしょうか? かのように古墓が断載嵐されていて、その伝説を訊ねてみました。 亙り鰍砧竃脇と名を雄まれた墓は、書き残された書物よりはるか古い時代からそ こにあったといわれ、一説には旅の行者さん、しかも女の人の墓だと云う。
さらにその女の人の霊は墓本体に納まっておらずに、なぜかお供えに使う水 茶碗に漂っていると云う。
「だから、あまり粗末に扱えなくて、わしが丁重にお守りして朝夕お参りを欠 かしたことがないんじゃ」 とその家の主人はさも愛しげに話されました。
老木のわびた貫禄といい・石碑のじ寂くとした風情といい、古代のかすかな息吹 に触れた想いがして、単に歴史を重ねた遺物として扱うには、なぜか戸惑いを感じます。
こういうのを、日本人の心というのでしょうか?
県道、宮上知立線の拡幅工事に伴って、老木クロガネモチはこの地を離れます。
移植される場所がクロガネモチにとって、安住の地となり、今となっ ては人の知ることのできない悠久の歴史を秘めたまま、静かな余生を送っ てくれることを心から祈ります。

行者講(ぎょうじゃこう)

行者講とは、俗にいう宗教団体ではなくて、信者の心の赴くままに、奈良吉 野の大峰山にお参りし、修行を行うという日本人古来の素朴な信仰心を今に伝 える行事なのです。
役の小角行者のご本尊が祀られている大峰山は、女人禁制、九月には閉山と いう厳しい戒律をひく霊山で、その霊山参りは、昔の人々にとって、神への憧 れ、恐れ、敬いなどすべての思いを表しているように思います。
険しい霊場巡りは有名で、今でも信者はもちろん、学生らの心身を鍛える修練 道場として、特に七、八月は多くの登山者で賑わいます。
当時、逢妻あいづま谷に沿って、点在するほとんどの村落に、講はあったといわれ、 毎年その年の豊作を信じて、数人の代参者を霊峰参りに送りだしていたと思わ れます。
昔のこととて、歩いて、歩いて十二日ぐらいかけ、やっと行者さんのお札を授 かってホッとするがいなや、さらに渓谷づたいに高野山へもお参りしたという伝えも残っており、 昔の人の健脚ぶりに驚くほかありません。
さて、代参者がお山へ出発して代参のお役目を果たすまでの講中、留守をあずかる親族は、大変です。
村の行者堂において三日間祈念の経を唱え、割目池において清めの水 ごりをとり、代参者の無事な帰還を祈り上げるのです。
代参する親に代わって、年の端もゆかぬ男の子が水ごりを受けたという話は忘れられません。
今は交通の便もよくなり、一泊二日で楽にお参りができるようになり、先ほ どのような行事も省略されておりますが、それでも代参者の出発前後には、講 員はお堂において祀りごとを実行しています。
年号不詳で残念ですが、百姓にとって大切な田んぼ二反三畝(約二三〇〇u) を行者さんに献上したという伝えもあります。
その田は現在、東名高速道路の用地になっており、国や公衆のために供されてい ると云うことで、献上者(現在、子孫四代目加藤某家)のこのような心が現講員の 心として、今後も継承されていくことでしょう。

二そく七わのゆくえ

かれこれ百数十年もむかし、本地村(今の本地町)の本郷にあった話です。
ある年の秋も深まつた十一月の初めごろ、村の百姓である六兵衛は、つい先 日のいねかりのほの重みを思い出しながら、二池堤にほしてあるいねたばの見 回りに出かけました。ところが、近づくにつれて、何やら不安な気持ちにかり 立てられ、急いでかけよってみたところ、 「や、これはおかしいぞ。数が足りぬようじゃ。」
六兵衛は、気を落ちつかせて、たんねんにかかえ上げては、一たば一たば数 えたのですが、どんなに数えなおしても、二そく七わだけ、いねが足りません。 「これは大変じゃ。ねんぐをおさめることもできんわい。」
六兵衛は青くなつて、庄屋の勘兵衛のところへかけこみ、事のあらましを申 し出ました。そこで村じゅうそう出で、より合いを開いて、根ほり葉ほりたず ね合いますが、まったく見当もつきません。
そこで、神主である八桂にうらなってもらったところ、「遠くへは、とられておりませぬ。」 と言われた。
しかし、このままほうっておくわけにもいきませんので、みんなでそうだんのすえ、 わら人形を作って、せいばいすることに決めました。
午後二時、食事もはやばやとすませ、村人たちは、自分の仕事もやりかけにして、三 人、五人と赤はげ山に集まって来ました。
みんなは顔を見合わせて、 とつぜんに起こったいやなできごとについて、話し合いを始めたのです。
やがて、山の小さな空き地にわ一ら人形が立てられ、 みんなでせいばいしかかったちょうどその時、六左衛門がひとりおくれてやってきました。
顔色がすぐれず、様子もおかしいので、みんなはふしんに思って、 「六左衛門さ。いったいどうしたというのだえ。」 「六左衛門、なんでおそうなっただ。」 「おまえ、まさか……。」 口々につめよったのです。
小さくなって地べたにすわった六左衛門は、やがて、ポツリ、ポツリと口をわり始めました。
「おらあ、六兵衛さとこのいね、ぬすんじまっただ。おらんとこは、病人が おったんで、田の草取りもろくにできず、ちっとしかとれんかっただ…。 あとでたいへんな心えちがいしてしまったと気づいただ。許してくれ。」
五人組がしらの重左衛門は、すぐには、はんだんできず、親るいのものに もたしかめてみたところ、やはり、まちがいないとのことでした。
そこで組がしらの重左衛門は、庄屋さんに知らせようと道を急いだのです。
その間、赤はげ山では、わら人形のせいばいもそれまでにして、みんなで六 左衛門をかこんで、山を下り、村へ帰ってきました。
親るいのものは、六左衛 門をまん中にして、事のいきさつやら、かくし場所を聞き出していましたが、 六左衛門は、まわりの目をぬすんで、松元寺にかけこんでしまいました。
おしょうさんもこまりはてて、考えこんでいるうちに、六左衛門は、またもや、この 寺を逃げ出してしまいました。
庄屋さんは、たび重なる不しまっに、ほとほと手をやきながらも、みんなで ゆくえをさがすように、言いつけたところ、 「となりの土橋村で、たしかに、六左衛門に会ったと、だれかが言っていたが……。」
「東海道を通って、赤坂(今の宝飯郡赤坂)あたりまで行ったげな。」
と、聞きつけて、みんなは心配しておりました。
ところが数日後、六左衛門は吉川村の新之助という男をっれて、ひょっこ り村へ帰ってきました。
そして、 「庄屋さま、前にはあんなこと言っただが、ほんとうは、悪いことはしていな いだ。おらのやったことじゃねえだ。」 と、前に言ったことを取り消したのです。
庄屋の勘兵衛は、今までのいきさっから、すぐには返事もできずにいると、 次の日には、二人で有脇村の庄屋の「六左衛門には、つみがない。」という、 そえ書きを持ってゆるしをもとめてきたのです。
しかし、その文章にはくいちがいもあるので、となりの本地村新田切の庄屋 の源七ともそうだんして、西尾藩のお役所へ申しあげようということにまとま りました。
二そく七わのできごとは、なかなか決着がつかず、日がたちました。いねを とられた六兵衛は、もういかりも悲しみも通りすぎてしまい、田んぼの見回り に来てはあぜにこしをおろして、いつまでも、ぼうっとしておりました。
村人たちは、気のどくがって、ことばをかけ、明るいもとどおりの六兵衛に なってくれるようになぐさめました。


塩付街道(しおっけかいどう)

その名のとおり、三河の海にて海水を汲み、取れた塩を挙母ころもを経由して、足助まで運んだ街道です。
足助の先、遠くは信州塩尻(塩の終わりの意)までの街道が俗にいう"塩の道"で、 古きよき時代を偲ぶ地名として、注目をあびています。


歴史上の逸話にもあるように、山国の人々にとって、貴重な生活必需品だっ た塩を中継する道として、塩付街道も当時の経済を担う街道だったにもかかわ らず、今、逢妻あいづま地内において、その道筋さえ定かではありません。
ある古老の一説によりますと、現鉄工団地と広久手町を区切る古い市道とい うことですが、宮口の汐取という小字名もその名残りかと思われます。
全盛期には、十頭以上の馬の背に、十八貫目はあろう塩を積み、挙母ころもへと通 行していたといわれる日々、この辺りは如何ような所だったのでしょう……
おそらく、うっそうとした木々が生い茂り、山又、山の街道とは名ばかりの 道だったと思われます。
その証に処刑場?だったといわれるあたりに青坊主(ゆうれい)が出たという話。
ある一軒家の庭先にきつねが集まり、一斉に鳴いたという話。
樫の大木のてっぺんに、猿投山から飛んできた天狗が住みっいて、まぼろしの 火を焚いてはいたずらをしたという話。
どれもつるべ落としの秋の夕日に、先を急がれる旅人が、さらに歩を早めるよ うな話ばかりです。
この後、塩付街道は、宮口の特産となる磨き砂を、 荷馬車で刈谷方面に積みだす街道として、さらに知立の弘法さんへの参道として、 名鉄三河線開通直前まで利用され、往来が頻繁になってゆきます。
寂しい山道は、人声の絶えない街道となり、そして道路と名称をかえてゆくのです。 時を越えて、存在できる青坊主や天狗様だもの、本当は今の世にも、出現していいはず。
現代の目まぐるしい有様は、驚かす側の彼らを逆転した立場に追いやり、 神通力を使いこなす気迫さえも、無くさせてしまったのだろうか?
そんな異次元的な想像をして、一人笑ってしまった。
なんの価値もないが、そっと大切にしていたものを失った時の諦めにも似た 苦笑いだった。


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